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進めています!アダム・ザモイスキ著『CHOPIN』の翻訳。

7月に音楽之友社から発売が決まっていますので、追い込みに入ってきました。

英米文学者で国際基督教大学名誉教授の大西直樹先生と私の共著で進めています。原著は私が手にしているのがペーパーバック。

300ページに及ぶ大著ですので、私にとってはそれはそれは大変なこと。

翻訳の手順はこのようになっています。

まずこの本を見つけたのは大西先生です。見つけた途端にもうせっせせっせと勝手にというべきか、お好きなように翻訳を始められたわけです。

私と共訳の話は決めておりましたが、まだ出版社は決まらずの状態で、ただただ大西先生の情熱がおもむくままに始まっておりました。

某最大手出版社に大西先生が声がけしたのですが、領域が違うことを理由に話は進まずでした。その次にショパン、ポーランド関係の書物を多く扱う出版社も考慮に入れ、ポーランド広報文化センターにも相談したところ、小さな出版社は編集者が少なくて大変になるとの情報も得ました。

やはりショパンの伝記であれば読者は音楽関係者が多くなることを考え、旧知の音楽之友社の編集者に相談をしたところ、それから話は非常にテンポよく進みました。

その頃には、大西先生も超一流どころの最大手出版社から出版する情熱はだいぶ引いていて、音楽之友社が決まって大喜びされていました。

さて、それからが本格的な私の翻訳の仕事の始まりです。

大西先生のラフな翻訳を出版に耐えうる文章にするべく、今度は私の出番!と仕事に取り掛かりました。

いやそれが。。。

大西先生の翻訳は、構文など基本的には絶対的な信頼があるので、その点は揺らぐことがありません。ポーランド国立版のエキエル版バラードの翻訳の時とは違い、迷ったら原点に、つまりラフであっても大西先生の訳に立ち返ればよいという母港がある安心感は何にも代え難いものです。

その点は素晴らしいのですが、いかにせよ、最初の訳ですから粗訳であり、私はそれを前に絶望的気分に陥っていました。1つの文章を前に2,3時間も頭を抱えることが何度となくあって、どうしたらよいものか、時間がどれだけあっても足りず、本当に途方にくれたのでした。

それは例えばこんな具合です。

「ステージにはグランドピアノが開けてセットされ、そこに最も近い誰もが求める席は、すでに聞き耳をたて心を落ち着かせた人々が、これからそこにきて座る人が醸し出す一つの和音、一つの音符、一つの意図、一つのアイディアも聴き逃してはだめだと語り合っていた。

人々がそれほどに熱心で注意深く、宗教的に感動していると言っても間違っていなかった。なぜなら、人々が待ち焦がれ、これから目にし、聞き、称賛し拍手をおくる人は、単に才能あるヴィルトゥオーゾではなく、音を創り出す芸術としてのピアノの専門家でもなかった。彼はただただ偉大な名声を持つの芸術家であり、そのすべて、いやそれ以上の存在、つまり彼こそショパンだった。」

・・・・・・・😓

わかるようなわからないような、日本語のようなそうでないような。これを、一つ一つ原文と見比べてそれなりに美しい文章にしていくという緻密な作業。。。

遅々として進まない仕上げ。。。

音楽之友社からは突き上げの矢の催促が飛んできます。これはかなり辛い時期でした。もうほとんど道歩く時も文章が頭の中を駆け巡っていました。

苦しみのどん底にいると、突然素晴らしいアイデアが頭に灯ったのでした!

「そうだわ、植田さんにヘルプを頼もうっ!」

植田さんとは、私のピアノの生徒さんで、国際基督教大学出身の才媛でピアノもなかなかよく弾きますし、何より明るく気持ちのよい人です。現在はオリエンタルランド勤務。人手不足でディズニーランドのレストラン用にサラダを作るヘルプをさせられることもあるそうです。

ピアノは今ベートーヴェンのソナタ第31番 作品110を弾いています!第4楽章のフーガに突入中。

彼女に私の訳に先駆けて、各章の言葉の整理をアルバイトで依頼したのです。

植田さんは私の予想よりもはるか有能で、見事なまでにさっささっさと言葉の整理を進めてくれて、これでどれほど助かっていることかしれません。おかげで、訳文の前で2,3時間も費やすことはなくなり、進行が実にスムーズになりました!

ポーランド広報文化センターの杉浦綾さんには、特にポーランド人名や場所の校正のご協力を頂いています。杉浦さんはもともと外語大ポーランド語学科時代には関口時正先生のお弟子さんでした。

そしてピアニストの内藤晃さん。彼ももともとは外語大ドイツ語学科出身という肩書を持つピアニストです。2年前に「師としてのリスト」(音楽之友社)というフランツ・リストのレッスン記録の本を共訳で出版しています。

内藤さんには文章の校正のご協力を頂いています。頼りになります!

第16章まであるうちの第14章が終わったところで、残すところ2章となりました。あと2章をGW前に終わらせなければならない予定で、デッドラインが迫っています。

ジョルジュ・サンドとの愛が終焉を迎え、ショパンは孤独に戻りました。24の前奏曲集Op.28から、ショパンが出版した最後の作品チェロ・ソナタOp.65まで、重要な作品のほぼすべては二人の生活から生まれたのでした。

ショパンはもうそれ以後何も生み出すことが出来なくなってしまったのです。

しかし最後の力を振り絞って、ロンドンとスコットランドの演奏旅行に行くのが、これから仕上げていく第15章。

第16章はもうきっと死を前にして、パリのシャイヨーからヴァンドーム広場の住宅に移り住むところから始まるのでしょう。

Zamoyskiの筆致は素晴らしく、私の胸にショパンの様子が深く食い込んできて気が滅入ります。

でもそこに到達するまでにはいろいろなくだりがあります!

『この年、パリのクリスマスは、インフルエンザの大流行が社交界の半分を襲い、1846年の初めの二、三ヶ月にはさらに活気がまったく萎えていた』

175年前はインフルエンザが今のコロナウィルスと同じ状態を引き起こしていたらしいとわかると妙な親近感!

『7月にはドラクロアも加わり、ショパンと一日中並木道を散歩したり、音楽について語り、夜はソファーでくつろぎながら、天から授かった彼の指に神が舞い降りるのを聴いた』

ノアンのジョルジュ・サンドの館で、画家のドラクロワとそんな風な日々をすごしたショパン。

『ドラクロアが去ると、すぐ後にヴィアルドたちが続いてノアンにやって来て、彼らも遠出をして田舎の散策を楽しんだ。ショパンはロバに乗り、馬小屋で麦わらの上で眠りにつき、運動にも精を出した』

へぇ〜、ショパンがロバに乗って、馬小屋で寝たなんて!

『ショパンの私に対する愛情は、排他的で嫉妬深いのです。可愛そうな天使であるあの人自身のように、現実ばなれしていて病的です。もしも彼が、苦しみに耐えられるほどに強い人だったなら、私はその苦しみを笑い飛ばして乗り越えるのに・・』

こんな言葉にショパンとジョルジュ・サンドの関係の裏側が垣間見えます。

『その夏の熱波は過酷で誰もを衰弱させ、とくにショパンはひどかった。ショパンは汗をかいている自分にひどくびっくりしていました。あの人はほんとに気が動転して、何度洗ってもまだ匂う!と言うのです。あんなに人間離れした人が、他の人と同じように汗を掻く自分を許せないのを見て、涙が出るほど笑いました。でもそれは口にはしません。それを言うと、怒り狂うのです。彼が汗を掻くということを世間が知ったら、生きていけないでしょう。オーデコロンの香りしかしないけど、大工のピエール・ボニンみたいに臭うわね、と彼にいうと、あの人は自分の部屋に逃げ込んでしまいました。それはまるで、自分の匂いに追い回されたようでした』

・・・・・😂 汗をかくことを恐怖するショパン!

そんな人間ショパンを一文一文から読み取って、彼を深く知っていくことに深い喜びを感じています!

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