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120周年とはすごいこと!いかに内容がしっかりしている雑誌で、固定ファンによって脈々と受け継がれているかが証明されたということですね。

私の母も愛読者でした。母曰く、「家事全般『婦人之友』で教わってきたのよ。」

私が小さい頃、『婦人之友』はいつも家の食卓や母の洋裁部屋やあちこちに置いてあって、羽仁もと子というお名前をを目にしていました。今回の対談を担当して下さった婦人之友社の羽仁曜子さんは、偉大なるもと子さんのご主人様の系列の姪でいらっしゃるとのこと。

さて、先日婦人之友社の本社で行った大西直樹先生と金子三勇士さんと私3人の対談がついに掲載になりました!

なんと、94ページから107ページまで10ページ以上も占めていて、かなりの部分が写真です。

どどーん!『新しいショパン』困難な時代に響く調べ!!!

三勇士さんの演奏姿、私が翻訳してボロボロになったザモイスキ著の『CHOPIN』の原本。まだ対談については何も書かれていないが、写真でアピールの2ページです。

大西先生が口火を切って対談が始まります。大西先生はICU名誉教授でアメリカ文学研究者でいらっしゃいますが、現在は桐朋学園大学音楽学部の科目履修生でとして、(なんと!)私のショパンの作品解釈の講義をとって3年目になられます。

三勇士さんと私は、人生初めてのショパンとの出会いが今ひとつであったことを語っています。

そしてその後のピアノを学ぶ日々のこと。私は大学4年の時に受講したワルシャワショパン音大の夏期講習で、バルバラ・ヘッセ・ブコフスカ先生に師事し、先生に自分のところで大学後の勉強を続けたらどうかという留学のお誘いを受けたこと。三勇士さんは6歳からお母様の国ハンガリーに単身留学したことが書かれています。

写真は今年の夏のポーランド。ショパン音楽祭でのリサイタルの写真と、地元の応援してくれるアンナとタデック夫妻と一緒の写真!

そして訳本について、これまで世の中に出てこなかったショパンの真の姿、人間像について。弟子のローゼンガルトの日記から、ショパンに叱られて悔しくて、ショパンの手を一発ひっぱたいてやりたくなった(笑!)ことや、即興演奏家としてのショパンについて述べたことが書かれ、そして三勇士さんが専門のリストとショパンの関係についても興味深い意見を述べています。

ショパンとリストの関係は本当のところどうだったのか。それを史実から想像しながら、ショパンの側からとリストの側から両方の視点で見る、これは興味が尽きないテーマです。ショパンの残したリストについての描写は多くないのですが、とてもシャープに捉えた言葉ばかりです。逆にリストは長生きした分、ショパンについての記述(ショパンの伝記)もあり、レッスン語録にもショパンについては数多く出てきます。

コロナという困難な時期をへて、今ようやく活動が再開されて活気を取り戻した音楽界ですが、歴史はいつも繰り返され、ショパンの時代、つまり19世紀はじめのヨーロッパでもコレラが大流行し、革命、蜂起、戦争があちこちで起きていたかなり困難な時代。

驚くべきは、ショパンは39歳の若さで亡くなりましたけれど、そのショパンが晩年「もう僕の親しかった友人たちは皆死んでしまった。」と嘆くのです。確かにそうでした。若い頃の親友たちの多くは没していたし、弟子の中で期待の星だったフィルチも演奏旅行中亡くなり、それくらい多くの人は若死だったのです。決してショパンだけが飛び抜けて若く没したわけではない。それを知って改めて驚かされます。

当時ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの支配下に置かれ事実上国は消滅。そんな中で貴族、知識人や芸術家や詩人は大挙してフランスに亡命した時代。そこにリストやドラクロアたちのような飛び抜けた天才たちと時間を共にして『新しい音楽』が生まれたのでした。

婦人之友社には対談と掲載の御礼を申し上げます。とても丁寧な紙面作りがなされていることがよくわかりました。120年の伝統は、人間対人間の丁寧な関係を築き続けた結果だと崇拝の念を抱きます!

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