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1月10日はショパンコンクールin Asiaコンチェルト部門ファイナル、アジア大会の審査でした。

会場は新百合ヶ丘にある昭和音大ユリホール。

新百合ヶ丘駅前にあるホテルモリノで、同じく審査に携わるブロニスワヴァ・カヴァッラ先生をお迎えに上がって、ユリホールまでご一緒することになっています。

カヴァッラ先生とは20年くらい前からお付き合いがあり、お若き頃はものすごく頭のキレる先生、というイメージが先行していましたが、今はうんとオシャレで素敵なおばぁちゃまです。ワルシャワショパン音大の教授で、ポーランドショパン協会会長でもいらっしゃいます。

ホテルで落ち合って、ユリホールまでどちらかと言えば、私がご案内するというより、先生の方が歩きやすい道をよくご存知で、色々おしゃべりをしながら向かいます。

「どう、順調にやっているの?」

「はい、それが、夫が12月に亡くなりました」

「そのテーマについては、私が先人よ」

ここがカヴァッラ先生のすごいところです。

まず100人中100人が、このような訃報を耳にすると、えっ!と驚き、それは全然知りませんで、とか、それは大変にご愁傷様でしたね、とか、ポーランド語ならばPrzyklo mi bardzo、英語ならばI am so sorry to hear what happened with you と続くところなのですが、カヴァッラ先生の反応はまったく違いました。

私の方にお顔を向けることなく、顔色一つ変えずむしろ険しい表情になられて、私が先人よ、と仰ったのには少し不意をつかれました。

誤解のないように書いておくのですが、カヴァッラ先生はとても温かいお人柄で、いつも私が言うことに同意して下さる感じや、話しのはずみ方などから、こわい人冷たい人など無縁の方なのです。

とにかく会話を続けます。

「先生の主人様が亡くなられた後、ワルシャワのお宅に伺わせて頂いたことがあります」

「そうだったわね」

「コンスタンチン・イエジョルノは環境が素晴らしくて、ブコフスカ先生のご両親は1年に何度か休息をとりに行ってたのをよく覚えています」

「またいらっしゃい。ワルシャワに来たらいつでも歓迎よ」

「ありがとうございます」

「‘仕事‘(pracaプラツァ)するのよ。プラツァ、プラツァ。プラツァに夢中になることよ」

「は?プラツァですか」(今日もこうして審査員として働いている。。。)

「プラツァが薬よ。仕事していれば忘れるものよ」

「はい」

なるほど〜。そういうことですか。

カヴァッラ先生のご主人様は彫刻家で、いずれお宅のアトリエ部分をご主人様の作品を展示して公開したいと仰っていたことがありました。

そんなお話をしながらホールまでご一緒しました。

ポーランドからもう一人は、ピオトル・パレチニ先生!

このところお目にかかっていなかったので、ご一緒できてとても嬉しかったです。先生の方も

「ショーコ、久しぶりだね!何年会わなかったかな」

「コロナよりももっと前にお会いして以来ですね!」

パレチニ先生は少しも歳を取られず、うんと若々しい!先生がショパンコンクールで3位になられたのは、内田光子さんが2位の時で1970年のこと。あれから53年たち、当時の年齢から考えてももう70代後半に差し掛かろうというのに、まったく時が止まったよう。

審査の間、パレチニ先生は独り言をさかんに漏らされます。

1曲弾き終わると「イエズス、マリア!!」

派手に音をはずすと「なんとかかんとか〜」

独り言どころではない声の大きさです。前からこうでいらしたかしら?

今日の審査はコンチェルト部門で、課題曲はショパンの協奏曲第1番か第2番。1楽章、または2、3楽章。オーケストラではなく、弦楽四重奏団がオーケストラのパートを演奏します。ポーランドからの「エヴォルーション・カルテット」がカルテット版で演奏。

休憩時間になると、カヴァッラ先生とパレチニ先生は、ヤン・エキエル門下で同門なので、話しが弾む弾む。幸か不幸か内容が理解できてしまう私の耳は、完全にそれに釘づいてしまっていました。

演奏については、私がよく弾いてるなと思う演奏は、お二人にとってはそうでもなかったりするのです。

協奏曲はショパンが19歳〜20歳にかけての若き時代の作品だから、極めてヴィルトゥオーゾ的に書かれているし、出場者も若いのですから、ばりばり弾くケースが多く、よく弾けていることも重要な条件でそれでいいと思ってしまったりするものですが。。。

「そこに詩情があったかどうか」

と仰います。

「そう言えば、PとかPPはあまりなかった。。。。」(とも思い始める)

聴くポイントが深いなと思います。

「カルテット版だと、ピアノの位置がカルテットの後ろに下がるから、オーケストラと弾く時のようなソリスト性が薄れるでしょう」

それは確かにそうです。私もカルテットと弾いた時に、室内楽としてピアノクインテットのような感覚を持って弾きました。

「ショパンもカルテット版で弾いたのですよね」

「でも当時と今の楽器では全然違うのよ。それに位置関係も違っていたはずよ」

なるほどそうだったかもしれません。

ショパンが祖国を出る直前に協奏曲第1番を作曲出来立てほやほやで自分の家のサロンで弾いた時は、ピアノはブフホルツだったのではないかと思います。

その前年にウィーンで行ったコンサートでは、グラーフを自ら望んで選んだのでした。音が弱かった、という批評はこの時以来、ショパンに生涯ついてまわる評です。

今日のエヴォルーションカルテットは、かなり厚みのある音量で鳴らすので、ピアニストたちも負けじと弾かねば埋もれてしまうという恐れを抱いて、ばりばりと弾きがちだったこともありそうです。

改めてお二人の深い洞察に触れて、ご一緒させて頂けたことを有り難く思います!

ともあれ、無事に審査結果も出てホールを出たのはもう7時すぎで真っ暗。お二人は新百合ヶ丘駅前のスーパーでお土産を買うと入って行かれ、そこでお別れしました。

今日は何だかとても楽しく充実した1日でした!

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