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GWというのに、こんなにアクセクしていたのは私だけ?!と言いたくなるほどに最後のあたりは大変でしたが。。。

ついにAdam Zamoyski著『CHOPIN』第16章までの翻訳が完了!

はぁ、これまでモノも言わない人になって、←少しはしゃべってもいましたが、毎日どうでもいいかっこうをして頑張っていたのが、ようやく完了にたどり着きました!

いくつか胸に迫る部分が出てきて、私の翻訳の歩みが止まってしまうことがありました。

特に。。。最後の章、第16章のショパンの最期の時の描写です。

私は本当の最期を看取ったのが、ジョルジュ・サンドの娘ソランジュと、弟子のグートマンだということを初めて知りました。

1849年10月17日のことです。

パリのヴァンドーム広場12番地の5つも部屋のあるアパルトマンに、9月からショパンは移っていました。それでも1,2回は周辺に出たこともあったとありますが、その他はもう外に出ることはありませんでした。

ほぼ無神論者だったショパンは、最期の時が近づいていることはもう明らかとなり、ついに画家のドラクロアやバルザックなどにも説得されて、神との和解のための告解を受けたのでした。

それから数日ののちの10月17日・・・

『夜がふけると、さらに何人かが帰り、残ったのは姉ルドヴィカ、マルツェリーナ妃、グートマン、ソランジュ、トーマス・アルブレヒトだった。 

最期の時は10月17日午前2時ごろに訪れた。ルドヴィカは眠っていたが、ショパンが目を開けるとソランジュが傍で彼の手を握って座っていた。

「あっちへ行って。ひどいことになる。見てはいけない」と突然彼の口から言葉がもれた。彼が発作を起こしたのかと怯えたソランジュはグートマンを呼ぶと、彼がショパンを両腕で抱えた。

「私たちは水を飲ませようとしたが、死がそうさせなかった。ショパンは私を見つめたまま逝った。見るも恐ろしい姿で。私には彼の瞳が暗闇の中で曇っていくのが見えた。ああ、彼の魂も死んでしまった!」』

この場面、心に迫ってどうしようもなかったです。

たくさんの人がショパンに弔事を残し、有名な言葉も残されました。

その中でも特にポーランドの詩人ツィプリアン・カミル・ノルヴィットの「ショパンのピアノ」と題名のつけられた弔事は、弔事の域を越えて一遍の詩としてポーランドを代表する文学作品にまでなりました。その一部です。

『彼はその神妙なる技巧によって芸術の最も困難な課題を解きおおせた— すなわち野の花を、その露ひとつ、細微の和毛(にこげ)一本振り落とさずして集めおおせたのである。そしてそれら野の花に、理想の芸術によって光輝を与え、全ヨーロッパを照らす星、流星、はたまた彗星に変じた』(ツィプリアン・カミル・ノルヴィット「ショパンのピアノ」関口時正訳から引用)

そして最期を看取ったソランジュの回想にも心打たれます。

『神秘の贖いをするために、苦しみを抱えた肉体に姿を変えて地上に投げ落とされた天使の魂』それがショパンだったと。そして問うたのです。

『彼の生涯が39年の激しい苦悶に満ちていたからだろうか?彼の音楽があれほど気高く、美しく、そして崇高に響くのは。。。』

そして分野こそ違えど、お互いの芸術性を心から理解し合った画家ドラクロアの言葉が、ショパンの存在についてを総じてまとめています。

『比類なき天才の存在に天国は地上を嫉妬し、私はその天才への思いに囚われ、しかし彼とはもうこの世では会えず、あの神々しいハーモニーを耳にすることも叶わないのだ。』

私はこういったドラクロアの残された言葉を知り、彼の作品をパリで探しては見に行き、ショパンの生涯と結びつけてしばしその前に立ち尽くしました。ドラクロアの絵から、その絵筆の筆致から、ショパンの感覚を盗むことができるのではないかと、そんなことを思ったのです。。。。

奮闘丸見え状態の私のデスク!

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