BLOG

ブログ

ポーランド国立ショパン研究所(NIFC)の新刊が届きました。『フリデリケ・ミュラーの手紙✉️』

この本がショパンのレッスンを知る上で、どれほど“新発見“か、それはもう大変な価値がある本なのです!

ショパンは作曲とレッスンと両方で収入を得ていました。作品65までしかないのですから、他の作曲家たちと比べても多作とはとても言い難い作曲活動ぶりで、それより精を出していたのはレッスンでした。直接収入に結びついたからでしょう。

弟子の中でプロフェッショナルな弾き手は数少なく、カロル・ミクリ、ジョルジュ・マティアス、カミーユ・デュボワの3名程度が知られるところです。

そして、このフリデリケ・ミュラー!

彼女はショパンの指導を受けるために叔母さんの一人を伴いパリに留学(と言っていいのか)しました。1839年から1845年までですから、ショパンはジョルジュ・サンドと生活を共にして、関係も良好だった時期のことです。

ピアニストとしてかなりの弾き手であったことは間違いなく、ウィーン楽友協会ホールでも演奏したことがあるほど。

ショパンとの毎回のレッスンについて、ウィーンにいる叔母さんに宛てて事細かに綴った日記のような手紙が存在したことは概知でしたが、消失したと思われていたのです。170回もレッスンを受けて、そのほぼ全て、ショパンとの会話も書かれた手紙ですから、残っていれば・・・と誰もが思っていた資料だったでしょう。

2009年、フリデリケの曾々孫にあたるウタ・ゴーベル=シュトライヒャーがそれを偶然に発見。

そしてこの3月にポーランド語訳がNIFCから出版されました。

昨年ショパン研究の第一人者であるエーゲルディンゲル先生が桐朋に来校された時、「ショパンとのレッスンを綴った、フリデリケ・ミュラーの手紙は世紀の発見です。実に生き生きと描写されている。ポーランド語訳が3月に出版されますよ」と、目を輝かせて仰っていた本です。

なんと700ページもあります。フリデリケ・ミュラーは、その後シュトライヒャーピアノの制作者J.B.Streicherと結婚しています。結婚後は演奏活動からは遠ざかったようです。余談ながら、結婚相手のJ.B.Streicherは、ベートーヴェンが最大の信頼を寄せていた天才ピアノ製作者ナネッテ・シュトライヒャーの息子で、フォルテピアニストの小倉貴久子さんは、このJ.B.Streicher制作の楽器を所有されているそうです。☜これにはびっくり!

エーゲルディンゲル先生が桐朋学園に来校されたのは昨年の6月。その時のセミナー中も、また終了後の私的な会話でも、この資料について話題を持ち出され、この話になると少年のような光を目に湛えるので、とても印象に残っていました。


やっと手にできたこの本📕!たまたまめくったページはこんな感じです。

「親愛なるロッテ叔母様へ                        家探しと日曜と火曜の猛暑で疲れ果てて、ろくに練習できなかった私の手と手首は鉛のよう。ジョン・フィールドのポラッカをショパンの前でまともに弾けなかったら、どんなに大変なことになるか想像して、今朝レッスンに行く前に練習したけれど、首を縦に振ってくれないのではないかと恐ろしくてたまりませんでした。(続く)」


いつの時代も誰も同じなんだわ。ショパンのレッスンはなかなか厳しかったのでしょうね。


⬇️NIFCのサイトの解説
ミュラー=シュトライヒャーの日記という資料は、何年も前から失われたと考えられていた。2009年、ウタ・ゲーブル・シュトライヒャーがこのピアニストに関する記事を書いているときに、彼女の膨大な手紙の束を発見し、よく調べてみると、それが失われた「日記」であることが判明したのだ。


フリーデリケ・ミュラー=シュトライヒャーがウィーンの叔母たちに送った手紙のような「日記」ノート。Uta Goebl-Streicherが指摘するように、フリデリケの手紙には、芸術家、コンサート、ピアノ、音楽ニュースなど、パリでの生活が詳細に記されている。しかし、何よりも「彼女はショパンとの170回ほどのレッスンのほとんどすべてを詳しく、生き生きと描写し、ショパンとの多くの会話をそのまま引用している」のである。

⬇️NIFCの動画

fryderyke muller Listy z Paryza 1839-1845

関連記事一覧

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。