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オペラシティでアンドラーシュ・シフのリサイタル。今日は最前列!滅多にないことです。

今日のコンサートは、シフの新しい試みで、リサイタルの曲目を事前に決めておかずに、その時にもっとも弾きたいと思う曲目をステージに載せる。だから紙面によるプログラムが作れないので、ステージ上で曲目をアナウンスし、簡単な解説も行うという趣向です。

そうはいっても、最近シフがどのような曲をレパートリーにしているかは情報が出ているし、前日にも別のホールでリサイタルを行なっているので、それとなく演奏曲目の予測はつきます。

通訳は奥様でヴァイオリニストの塩川悠子さん。そのために用意されている席は私の真前、ご対面状態です。

ステージにお二人が姿を現すと、共同体とでも言ったらよいのか、いえ、それ以上のもの、あたかも一つの卵から生まれ出てきたような。。と言ったら失礼になるでしょうか、同一体が外側だけ違う二つに分かれたかと、しばし驚き見惚れてしまいました。

すぐに演奏が始まります。

えぇっと、この曲、なんだったかしら。間違いなく知っている曲。バッハのはずだけど、このメロディは確かに知っている、フランス組曲でもないし、パルティータにもこんなのないし、イギリス組曲にしては短いし、うーんと、なんだったかしら。。と考えているうちに曲が終わってしまいました。

「この曲はバッハが10代の若い頃の作品で、スウェーデンで仕事に就くことになった兄の出発に際して、バッハがその気持ちを表した曲です。」

そうだわ。これは『最愛の兄の旅立ちに寄せてのカプリッチオ』だわ。大学の時に林秀光先生がこの曲を弾くようにと最初に勧めて下さった曲でもあります。でもほとんど誰も弾くことがなかったので、あまり乗り気になれずにスルーしたのでした。

やはり若い頃は人気がある曲が弾きたいものですよね。(自己弁護!)その後一通り弾いたり聴いたりして、しばらくするとレアな曲に急に興味が移って、誰も弾かない曲を探し出して自分のモノにするのが至上の喜びになる。。。そういうものです。林先生は人が弾かない曲を発掘しては、私たち生徒に振ってくるのでした。

シフに話を戻しましょう。

このカプリッチョの最終曲のフーガが複雑な部分があり、間違えたわけでもないのでしょうけれども、何かしら規則正しいはずの拍の刻みが乱れて、音を継ぎ接ぎしたような不明部分が2箇所あったのです。でも一瞬のことではあったし、よくわかっている曲ではないので、何か変だったと受け止めておきました。

解説が終わると。。。

「この曲はもっと弾かれていい曲なのに、ほとんど知られていないので、もう一度弾きます。」

なーんてラッキー!!解説のあとにもう一度聴けるなんて。

そして今度は例の複雑なフーガもまったく拍が乱れることなく、最後まで整然と拍は運ばれていきました。後から思うに、もしかすると、シフ自身が最初の演奏に満足しなかったのでしょう。

次にハイドンのソナタハ短調を弾くと仰る。

「ハイドンは本来もっと高い評価を受けてしかるべき作曲家ですが、ベートーヴェンやモーツァルトほどではなく、私は啓蒙に取り組んでいます。ウィットに富んだ曲が多くあります。ベートーヴェンもハイドンを尊敬して門戸を叩き、1794年までレッスンを受けていました。このソナタハ短調(ピアノソナタ ハ短調 作品30-6 Hob.XVI:20)ももっと評価されていいハイドンの真価がわかる曲です。ビリーブミー。」

そう仰って演奏が始まったのですが、私は不覚にもほぼ始まりから激しい睡魔に襲われ、中庸のテンポだなぁと思っただけで意識が飛んでしまいました。決してシフの演奏のせいではなく、昼間動き過ぎたせいですが、途中で朦朧としながら、この曲はバッハ??。。。ハイドンのはずなのに、バッハのよう。。という思いが頭をよぎったのは中間楽章の頃で、でも再び意識が飛んでしまい、目の前の塩川さんに気付かれなかったことを祈るばかりです。

次にシフが演奏したのは、2曲のつながりを意図して選んだバッハの『半音階的幻想曲とフーガ』とベートーヴェンの『テンペストソナタ』の組み合わせでした。私にとっては意外でしたが、シフが共通性の一例として挙げたのは、ベートーヴェンがバッハから受け継いだレチタティーボ部分です。

2、3年前に行われたシフのベートーヴェンソナタのリサイタルを聴いた時、他のピアニストとは違う楽曲へのアプローチに強い衝撃を受けました。どのソナタも多線的な書法がなされていることに気付かされ、極めてポリフォニックな解釈の演奏でした。その結果ものすごく洗練された音楽に聴こえたのです。

シフの演奏は来日のたびに聴いていますが、打鍵が強いと感じていました。強い音だけではなく、弱音でも打鍵はそれなり強い。それだけでなく、時折その周辺と調和しないほど強く打鍵することがあります。意図しない音を出すとは考えにくいですが、本当に意図しているのか疑問に感じることもあります。

今回最前列の席だったので、斜め後ろからシフの身体の使い方や音の出し方をつぶさに観察してみると、やはりかなり腕力を使って、特に肘から鍵盤に鋭く振り下ろしていることがあります。

テンペストの第1楽章の第1テーマなど、ピアノのすぐ横で聴いたら、かなり強烈な音なのではないかしら。硬質で、耳に痛いくらいかもしれません。その強打の音は、2000人規模の大ホールではうまい具合に響きが拡散して、しかも倍音の衣をたくさん纏って、アーティキュレーションのはっきりついた明快な響きとして聴こえます。極めて洗練された音になるのです。

そしてそれら時折ある強い打鍵の音は、曲の輪郭を縁取り、響きの稜線を形作っていることにも気がつきました。

ペダルははっきりとした目的を持って使い、曖昧なペダルは皆無で、長く使わない時は、勝手に踏んでしまうのを避けるためか、律儀にペダルの右側に足を下ろしています。ペダルを多用する必要がないシフの打鍵。

テンペストのレチタティーヴォのオープンペダルは、完全に踏んだまま。その間は特別なペダルワークを使っているようには見えません。それなのに、メロディの音は艶を帯びて際立ち、その残響だけが響きの合成となってホール内を渦巻くのです。

テンペストの4楽章の冒頭左手は、楽譜に実に忠実に、最初のレの音はスタカートのように短く切り、和声の基盤からはずし、次のラの音をベースにして和声を作っています。楽譜には確かにそのように書かれていますが、シフほどに、楽譜を忠実に再現しているピアニストはそれほど多くはないのではないか?

多くの演奏は、最初のレの音からペダルに入れてしまっています。そうすると、和声上の基本形になり安定感がもたらされますが、ベートーヴェンの意図ではラを最低音にして転回形にしています。シフの解釈では、バスの音は単独でレ。その根音のすぐ上に転回形の和音を作る。それによって左手も多声的、かつ多線の集合体として聴こえることになります。

シフはそのようにまとまった音も和音も、線の重なりに解剖してしまう。

考えてみると。。。

私たちは感覚的に、バロック音楽と古典派音楽は、まったく源泉が異なるように捉えていることを否定できません。楽器が違う、書法が違う、そのことにかこつけて、バロックはそれだけで完結していて、古典派は新しく生まれたという錯覚がどこかにある。そんな感覚は私だけのものでしょうか。

その錯覚をシフの演奏は正してくれます。バロックからの発展で古典派の音楽があり、そのつながりを認識させるように弾いてくれる。それがシフの演奏であり、ピアニストとして唯一無二の存在を確立している。

気がつくのが遅かったかも知れませんが、一連のシフの演奏やレクチャーを聴いてきて、そのことがよく認識できました!最前列に座った効果かしら。

後半はモーツァルトのロンド、そしてシューベルトの大作ソナタイ長調。そしてアンコールにはブラームスの作品118−2超有名曲のインテルメッツォ。これは意外にもポリフォニーを強調しない演奏でした。

そしてモーツァルトのC-dueのソナタ、最後にはバッハのイタリア協奏曲第1楽章。以前にアンコールで全楽章弾いたことがありましたが、今回は1楽章のみ。近くの席の人も、前には全楽章弾いたわよね、と言っていました。スタンディングオベーションで拍手もいつまでも鳴り止まず! ふと時計を見たら、え?!!?(・_・;? ナニ?!もう10時半。

いくらでも音楽を私たちと共有したいというシフの気持ちを存分に味わえたコンサートでした。

その間、私の目の前の塩川さんはずっと微笑みを浮かべながら静かに座っていらっしゃいます。拍手の中、最後に二人で下手に引き上げるとき、ずいぶん長いこと聴衆を前にして座っていらした塩川さんは、よろけそうになってうまく立ち上がれなかったのを、シフが手を差し伸べて、二人で舞台袖に歩いて行かれました。

なんて、お二人はそっくりなのかしら。。。私はまたもやうっとり見つめて👀しまったのでした。

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