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一昨日一斉に流れたニュース。

「世界的指揮者の小澤征爾さんが6日に自宅で亡くなりました」

ベルリンフィルのデジタルコンサートホール Seiji Ozawa追悼

音楽関係者であれば誰でも小澤さんの功績を思い、一つの時代が幕引きしたことを感じることでしょう。

桐朋学園の先輩と言うにはあまりに偉大で、私が指揮科にいたわけでもないのに、追悼の何かをここに書くのはおこがましいですが、多くの方が言葉を残していらっしゃいますので、私も自分のために書き残しておきたいと思います。

二つの思い出があります。

一つは学生時代のことです。小澤さんの師である斉藤秀雄先生が亡くなったのは私が高校2年の時のこと。チェロの友人が「とーさいが亡くなったよ」と呟くように言ったのでした。

私たちピアノ科の学生はとーさいこと斎藤秀雄先生の教えを受けたことはなかったですが、弦楽器の学生、特にチェロ科の学生にとっては父を無くしたようなものだったと思います。

そうして斎藤秀雄先生の時代は幕を閉じ、その2年後にはピアノの井口基成先生も亡くなられ、桐朋の設立にも関わった巨匠の先生方の存在は消え、その直接の教えを受けた演奏家たちが桐朋を牽引する存在となりました。

小澤さんはそのお一人ですが、学校におさまるような常識的存在からはかけ離れていて、ボストン交響楽団の音楽監督でもあり、世界中で振っていました。

私は大学に入学してから指揮科のクラスの伴奏をお引き受けするようになり、そのおかげで小澤さんの特別レッスンを受けるという光栄な経験ができました。

当時40歳代でいらしたはず。今でも記憶に鮮明に残っているのは、腕の筋肉です。

鍛え上げられ力仕事をしてきた太い腕っぷし。半袖のTシャツから出た腕の筋肉の動きが、他の誰とも違い、ビクッビクッと筋に沿って動き、俊敏に、そしてものすごく自在に、脈打つように、上半身と連動してリズムに強力な弾みがつく。私たちピアニストの音も音楽も、その動きのもとでガラリと変わります。

後に肩をこわされたと聞いたので、この頃が動きの自在さという点では絶頂期だったのではと思います。

小澤さんは私たちピアニスト(指揮者の伴奏はピアニスト2名、2台のピアノで弾きます。スコアの分け方は、大まかには弦楽器と管楽器)に直接注意やアドバイスをすることはなく、自ら振って示すレッスンでした。

レッスンで弾いた曲は、私の記憶ではドビュッシー作曲交響詩『海』、ベルリオーズ『幻想交響曲』、ベートーヴェンの交響曲か序曲もと思います。

斎藤秀雄先生が整理された指揮法のテクニック、例えば「たたき」の方法についてもかなり事細かにアドバイスされていました。

ものすごく強いオーラの持ち主。カリスマ。気さくだけど自分優先と感じました。

そして二つ目の思い出は14年前。。。。

我が師林秀光先生は東北の大震災のすぐ後に亡くなられ、そのお葬儀の時のことです。お二人は桐朋の1期生同士でともに学んだ仲。男性は4人だったそうです。

あの頃小澤さんは食道癌を患われた後で、そのせいで椅子に長く腰掛けているのが苦痛で、ご自分の折りたたみ椅子をどこに行くにも持っていらしたようです。

友人が言うには、最寄り駅から一緒だったそうですから、タクシーや車で会場に乗り付けたわけではなく歩きだったようです。

私は葬儀でショパンのレント・コングラン・エスプレッシオーネ(ノクターン遺作嬰ハ短調)を献奏させて頂くことになっていました。弾いたことはありましたが、当然急ごしらえです。

そんな中。。。

よりにもよって、小澤さんは自分の椅子をピアノの鍵盤のすぐ横に持ってきて着席されたのでした。

ひっ!あっち行って、どっか行って!と念じたけれど、空いてる場所などピアノの周囲しかなく、もう観念するっきゃない。

そのようなわけで、小澤さんの視線を感じながら献奏をしたのですが、不思議とプレッシャーは感じませんでした。プレッシャーを感じさせるようなオーラは出さず、小澤さんの心は、真に盟友の秀みっちゃんへの哀悼に向けられていたのでしょう。

その後スピーチでは、桐朋時代の林先生の真面目ぶりなど披露して、私たち生徒の知らない林先生の一面を明かして下さいました。

あのお葬儀は心底素晴らしいと感じました。安喜子先生の喪主挨拶は、秀光先生の闘病の記録を毅然として述べられ、安っぽいお涙頂戴のご挨拶とは一線を画していたし、小澤さんの型破りな挨拶しかり。林先生の人柄と人望が反映された唯一無二のお葬儀でした。

村上春樹と小澤征爾の本も結構長い間愛読しています。

『小澤征爾さんと音楽について話をする』小澤征爾✖️村上春樹 新潮社

「楽譜には五線しかない。そこに書かれた音符自体には何の難しさもない。ただのカタカナ、ひらがなみたいなもん。ところがそれが重なって来ると、話しがどんどん難しくなってくる。」

うんうん、本当にそうです。

「カタカナ、ひらがな、漢字は読めても、それが組み合わさって複雑な文になると、何が書いてあるのか理解するためには『知識』が必要になってきますよね」

うんうん、確かにそうだわ。知識がベースにあるから理解できる。

「その『知識』の部分が、音楽の場合はやけに大きくなってくるわけです」

そっか、それでわけわからずただ弾いているだけってことがよく起こるし、なんというか、わかって弾きたい!ともう一度楽譜に戻ってみようと思うのはそのせいね。

この部分は最初読んだ時に、そういうことなんだ!小澤征爾だって難しくなればそういう壁にぶつかっては乗り越えてたのね。。。

と思って、この本を開く時は、なぜだかまずこの部分を開いては救いを求めてから次へ進んでいました。

留学時代には、まだToho-Gakuenという学校がヨーロッパで知られていない頃だったので、「Seiji Ozawaも卒業生です」と言うと理解してくれることがよくありました。

ベルリンフィルも追悼を辞を表して、2009年に定期で振ったメンデルスゾーン作曲オラトリオ『エリア』Op.70を、デジタルコンサートホールで追悼演奏として出しています。このオラトリオは2時間以上かかる大作。歌い手もナタリー・シュトゥッツマンなどそうそうたる顔ぶれです。

ベルリンフィルのデジタルコンサートホールより

私自身が聴いた小澤さんの演奏の中で印象に残っているのは、アルバン・ベルク作曲オペラ『ヴォツェク』。

それからロストロポーヴィチとのドヴォルザークのチェロコン。

それからルドルフ・ゼルキンとの協奏曲。なぜだか二人で陽気に走ってステージに出てきて、走って帰って行きました。肝心の曲がどうも思い出せないです。

それは下の二点のチラシのどちらかのはず。山口雅敏先生が探して下さいました。おそらく聴いたのはボストン響との方かと思われます。だとするとブラームス第1番で、しかも会場が普門舘!?記憶と合わないのですが。。。でも新日本フィルとの82年では時期的に合わないのでそうだったのでしょう。

1978年公演

それからジェシー・ノーマンとの共演。ノーマンがあまりに巨大で、小澤さんは柳に飛びつくカエルに見えました。(お許しを!)

小澤征爾さん。これほどの指揮者が今後日本から出るかどうか。

小澤さん自身が語っていることは、ヨーロッパに出ていってすぐに受け入れられたのは、斎藤秀雄先生にみっちりとオーケストラを練習の時にまとめ上げる方法を仕込まれていたからだと言います。

桐朋には学生オーケストラがあり、Aオケ、Bオケと等級分けされていて、それぞれ毎週練習があります。そのオーケストラを桐朋にいた7年間はずっと振り続け、どう振ればオーケストラがまとまってくるかのノウハウを、斎藤先生の指導を受けながら実践で覚えていったそうです。それが強みだったと。

当時はそういった段階まで仕込まれて世に出てくる指揮者はまだいなかったのでしょうか。それができていたから、カラヤンにしてもバーンスタインにしても、大物指揮者の下で、リハーサルまでオケをまとめるのに力を発揮して可愛がられたに違いありません。

今はもう時代が違って小澤さんと同じ方法で出世する指揮者はいないでしょう。指揮者の世界も変化が大きく、女性指揮者の台頭も見逃せない時代になってきました。日本から、小澤さんに続く世界的指揮者が近い将来出ることが待ち望まれますね。

すべてベルリンフィル デジタルコンサートホール メンデルスゾーン作曲オラトリオ『エリア』Op.70を指揮するSeizi Ozawa

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