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Nekrolog napisany przez Norwida 18 października, ukazał się 25 października 1849 roku, w „Dzienniku Polskim”.

訃 音

生まれはワルシャワ人、心はポーランド人、その才能によって世界市民となったフリデリク・ショパンが、この世を去った。胸の病が、三十九歳の藝術家の早すぎる死をさらに早めたのだった――当月十七日のことである。

 どれほど困難な藝術の課題であろうと、彼はその神秘の(わざ)によって解決し得た――露ひとつこぼさず、極微の和毛(にこげ)一本ふり落とすことなく、野の花を集めることができた。そして理想の藝術により、それら野の花を、全欧州を明るく照らす星に、流星に、あるいは彗星にさえ変えることができた。

 各地の野に流れたポーランドの民の涙は、彼の手で集められるや、唯一無二の諧調をもつ水晶に変わり、美の金剛石が、全人類のための王冠ができあがった。

 つまり――最高の匠にしか為し得ぬことを、フリデリク・ショパンは成し遂げたのだった。

〔略〕

 パリ、1849年10月18日  C・K・ノルヴィット  (関口時正訳)

ワルシャワ2日目(ショパン博物館) - 旅行とクリスマスマルクト

アダム・ザモイスキ著『ショパン』第16章より 大西直樹・楠原祥子共訳

夜がふけると、さらに何人かが帰り、残ったのはルドヴィカ、マルツェリーナ妃、グートマン、ソランジュ、トーマス・アルブレヒトだった。(22) 最期の時は10月17日午前2時ごろに訪れた。ルドヴィカは眠っていたが、ショパンが目を開けると、傍らでソランジュが彼の手を握って座っていた。「あっちへ行って。ひどいことになる。見てはいけない」と突然彼の口から言葉が漏れた。発作を起こしたのかと怯えたソランジュはグートマンを呼ぶと、彼はショパンを両腕で抱えた。「私たちは水を飲ませようとしたが、死がそうさせなかった。ショパンは私を見つめたまま逝った。見るも恐ろしい姿で。私には彼の瞳が暗闇の中で曇っていくのが見えた。ああ、魂も死んでしまった!」とソランジュは残した。(23)

 翌朝、墓石の制作にすでに着手していたクレザンジェが、デスマスクを作成するために訪れた。デスマスクは作曲家を襲った死の苦悶があからさまに現れていたため、彼は修正を施して作り直した。画家のテオフィル・クフィアトコフスキは一日かけて理想的な美しさと、若々しさと落ち着きを加えてショパンの顔を描いた。クルヴェイユ医師は検死解剖を行い、その結果、ショパンの心臓が酷く悪化していて、死の直接の原因だったかもしれないことを明らかにした。心臓は摘出されて別に保存され、故人の願い通りにワルシャワに送られることになった。遺体がマドレーヌ寺院の聖堂の地下室に安置されると、アパルトマンはフランス当局によって封鎖された。 (略)

ショパンの死は、エクトル・ベルリオーズなどの著名な音楽家や、テオフィル・ゴーティエなどの詩人が寄稿した長文の死亡記事によって世界中に知らされた。彼らはおもによりよい言葉を求めて、言うなれば彼の「政治的」な重要性を強調していた。それもまた当然だろう。

 ショパンの音楽語法の表現は、おそらく西洋音楽のすべての真作品の中でも最も私的である。それは我々がその男について知るすべてを超越し、ロマン主義の芸術体験のまさに真髄である精神世界へと聴く人を引き込む。総じて言うなら、彼の人生そのものがロマン派芸術家の観念を象徴している。彼の存在は、天国からの霊妙なる逃亡であり、半分人間で半分天使であった。人類に啓示を与えるためにこの世に現れたその存在は、地上には帰属しないまま、自然の条件を担う生き物として苦しみ抜いた末にこの世を去った。

 多くの弔辞の中でも、詩人ノルヴィットの詩ほど感動を呼ぶものはなかった。「どれほど困難な藝術の課題であろうと、彼はその神秘の技によって解決し得た――露ひとつこぼさず、極微の和毛にこげ一本ふり落とすことなく、野の花を集めることができた。そして理想の藝術により、それら野の花を、全欧州を明るく照らす星に、流星に、あるいは彗星にさえ変えることができた。各地の野に流れたポーランドの民の涙は、彼の手で集められるや、唯一無二の諧調をもつ水晶に変わり、美の金剛石が、全人類のための王冠ができあがった。」(ツィプリアン・カミル・ノルヴィット「訃音」1849年10月18日より。関口時正訳)

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ショパン伝の最後の部分に、詩人ツィプリアン・カミル・ノルヴィッドによる有名なショパンへの弔事の引用があり、俗称「ショパンのピアノ」と言われるこの弔事は、弔事の域を越えたかなり長い詩です。

こういった本格的な詩は、関口時正先生の訳を使わせて頂くしかないと最初から思っていました。というのも、文体をよくわかっていない私達が素人訳をしては、このザモイスキの伝記の価値を下げてしまいかねないし、重要な詩であるからこそ、内容や文体をできる限りあるがままに伝える必要があると思ったのです。

一応ザモイスキ本人に、ポーランド語からの直訳をここにあてはめてよいか聞いたところ、よい訳があればそれに越したことはない、とのお返事でした。

以前に関口先生が訳されたものがありましたが、公になるなら再度新たに訳しましょう、と有り難いお返事を下さり、上記のような訳になりました。

ノルヴィットは病床のショパンを見舞っています。最後の住まいとなるヴァンドーム広場の部屋に移る前、シャイヨーの部屋にいた頃です。

最後の会合がどうだったか、ユーモアともブラックユーモアともとれる、というより、ショパンという男がそういう人間性を持っていたのだと、ちょっとあきれてしまう、笑うことも出来ないけど、笑わずにいられないこの一件。お読み下さい!

ポーランドの詩人ツィプリアン・カミル・ノルヴィットは、ショパンの容体が急速に悪化しているという噂を聞いて危機感を覚えた一人で、最後の敬意を表するためにショパンを訪れた。その時のことをこう書き残している。「彼はきちんと服を着て、腫れた両足をストッキングとパンプスに収めベッドに横たわっていた。彼はいつもそうだが、どうということもない何気ない動作にさえ、何かしら上流階級のたしなみがあり、永久不変の・・・それはアテネの貴族がヘレネ文明の絶頂で作り上げた儀礼ともいうべき・・・何かがあった。彼は咳と息苦しさに遮られながら、私が最近彼を訪問していなかったことを叱り始めた。それから、まるで子供のようになって、私の神秘主義への傾向をからかった。彼がとても喜んでいるのがわかったので、私は言われるがままに受け入れていた。そのあとで、彼の姉と話をしていると、また咳の発作が起きた。そして彼を安らぎに戻す時がやってきて、最後に私は別れの言葉を告げ始めた。彼は私の手を強く握り、額の髪を後ろへかき上げて、『私は去っていきます。この・・』と言い始めたが、また咳で遮られた。これを聞いた私は、打ち消すのが彼のためによかろうと思い、そしらぬふりをして作り声で、彼を抱きながら元気な人に話すように『毎年、あなたはこの世から去って行きます、とおっしゃるけれど、ありがたいことに、あなたは、今も生きている!』と言ってみた。しかしショパンはといえば、咳で遮られながらこう完結させたではないか。『私はここを出て、ヴァンドーム広場のアパルトマンに行くのです』」

ショパンコンクールの旅3: TAKKNの気まぐれ日記

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